ホンダF1撤退について
ホンダがF1を撤退した。
ホンダのコメントによると、
“これから迎えるであろう自動車の新しいムーブメントに対し、
人的リソース・物的リソースを集約し、世界をリードする先進的な
製品開発を早期に実施する”
とのこと。
F1ファンとしては非常に残念なことで、
また、昨年から長期計画でF1に対しての体制を構築し始めていただけに
残念極まりない限りだ。
まあ、実際はHonda Rasing F1(以下HRF1)というイギリスの会社との関係を、
本田技研工業(以下ホンダ)と本田技術研究所(以下研究所)が解消したということ。
※ホンダの技術研究所部門は“研究所”という形で分社化されている。
これは初代副社長(創業者の一人)の藤沢武夫氏が、
“技術屋は技術に集中できるようにステージを提供するべき”
“技術屋の生み出したものに経済性を付与するためには分社化しかない”
というなんとも面白い考え方。
HRF1に関しては、なんとか、売却先(提携先)を見つけて、現状の、体制、雇用を
守っていただきたいとは思う。
ホンダの姿勢としては、“もうやめた”というわけには大人の事情が許さないので、
資金的な援助を主体にHRF1の今後に関わっていくとのこと。
ホンダは過去(1968年・1994年)の2回にわたりF1活動を休止している。
第一回活動は1964年~1968年
この間、2回の優勝(1965年、メキシコGP・1966イタリアGP)を飾る。
1回目の休止の理由はいわゆる“マスキー法”に対応するため。
また、ジョー・シュレッサーのRA302(空冷のF1)による死亡事故もあり、F1活動自体が空中分解してしまった。
だが、結果として、ホンダは世界で始めてマスキー法をクリアした車(初代シビック)を開発。また、クリアの方法も他メーカーが触媒による方法を模索していたのに対し、燃焼室の中で何が起こっているかを理解し、対処したCVCCはまさに技術立国日本を世界にアピールした。もちろんF1という厳しい世界での開発がこの成功に寄与した(特にエンジンの燃料室解析において)のはいうまでもないことと言われている。
第2期活動は1983年から1992年
ここではエンジンサプライヤーとしての参戦だった。
1983年~1988年はターボエンジン全盛期。
1985年後半から投入した新エンジンにて圧倒的なパワーを獲得。
ウィリアムズ・ロータス・マクラーレンとペアリングし、多くの成功を手にしている。
またこのころ日本はバブル真っ盛り。F1ブームが巻き起こった。
1989年~1992年は規定変更でNAエンジンとなった。
アイルトン・セナとともに、出力では最強を誇ったホンダだったが、
1992年になると、ウィリアムズ・ルノーやベネトン・フォードなどのトータルパッケージをマシンコンセプトとしたチームが確実に力をつけてくる。もはやエンジンが強ければ勝てる次代ではなくなっていた。
また、同じく1992年といえばバブルが崩壊。経営的にも休止を余儀なくされた。
ここでの教訓は確実に市場に反映された。
車にパッケージングの概念を取り入れ、大ヒットを生んだ“オデッセイ”や“FIT”にこのDNAは受け継がれている。
第3期活動は2000年~2008年となった。
当初はホンダ独自で全て(エンジン・シャーシ)を作っての参戦予定であったが、オフィシャルディレクターであった、ハーベイ・ポスルスウェイト博士が死去するということもあり、参戦体制を急遽変更せざる終えなかった。そこで、当時参戦していたBritish・American・Racing(以下BAR)と連携し、協調体制でのスタートとなった。なお、旧BARの部隊が後に前出のHRF1となる。
2005年にはBARの株式を取得し、オールホンダとなる。しかし、F1界でもっとも多くのリソースを投入し続けても残念ながら具体的な成果を得る事ができなかった。
しかし、ホンダはF1を離れた後、世の中にセンセーショナルな製品を常に提案し続けてきた。今、ホンダが流しているCMにもそれが現れていると期待したい。
また、モータースポーツとの関わりも忘れてはならない。F1は撤退するが、モトGPには継続参戦。アメリカのレースIRLにも継続的にエンジン供給を続ける。
次のホンダが何をしてくるか・・・楽しみに見守りたい。
焦らず・慌てず・二人三脚で
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